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黙、


現代人は喋り過ぎてはいないか。
心と脳が乖離していやしないか。
黙ること、それは閉ざすことではなく
内に開けるということ。

礼拝堂という建築空間を媒体とし、その開口部に設けたカーテンのあり方を探る。日本人はたとえ、死後に入るお墓があったとしても、普段の私生活ではほとんど意識されることはなく、特定の宗教を持たない無宗教に近い人が多くいる。また、様々な宗教を受け入れ、独自の行事を生み出してきたが、それを信仰と言うにはあまりにも虚仮である。人間の「祈る」という行為の場において、必ずと言っていいほど「光」の存在は人々にとって強い意味を持ってきた。

「光と闇」より
光がなければ建築に空間は生まれない。
だから空間の成立にとって光の存在は根源的な問題である。
そしてその光は、ただ存在するだけのものではなかった。
光の存在のあり方には、常に社会的な意味合いが付与されてきたといってよいだろう。
それは宗教的であったり政治的であったり思想的であったりするものであり、
その背景にはさらに、それぞれの時代の技術革新さえも見えてくる。
言い換えれば光は建築と社会を繋ぐ媒体であるといえるだろう。

星空を見上げる
静寂に包まれた闇のなかで星空を見たことがあるだろうか。時代は進み、夜になっても街から明かりが消えることはなくなってしまった。都会では殆ど数えるほどしか星を見ることが出来ない。しかし人間は古代から夜空を見上げては祈り、夢を見ては学問を築いてきたのである。そして、この巨大に広がる星空の下で自らの存在の小ささを知っただろう。無限大に広がる宇宙の夜空に魅る光は、人の精神をあるべき姿へと戻していくのではないか。すべての宗教を超え、人種を超え、その空間に佇んだ人が日常の騒がしさから切り離され、心を静かに瞑想したり、沈黙、黙祷できる場を提案する。
意識的に動いていた内面の状態を無意識の領域へ。

Posted on 2018/04/30 22:17 by 伊藤 咲穂

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